花伝社のあゆみ
その1 創立総会開かれる─さっそく、ワイワイ、ガヤガヤ─(「花伝ニュースより」)
1985年10月5日(土)PM2~4時 本郷の学士会館分室に於いて、花伝社の創立総会が開かれた。集まったのは、平田勝を永年の間支え、支えられてきた面々が中心で、同窓会のような一面もあり、堅苦しいあいさつは抜きにして、率直でざっくばらんな雰囲気に終始した。小雨のためか、土曜日の早い時間のためか、集まる人々の性格によるものか、PM2時には、2、3名にしかならず、3 0分後にようやく15、6名となる。
A「そろそろはじめますが。えー、私は弁護士の秋廣と申しまして、平田さんとは学生時代からの強い友情の絆と申しますか、くされ縁ともうしますが、今だに離れ得ない者です。
今日の司会をさせて頂きます。まず、花伝社が庇を借りるといいますか、花伝社の発売元になっております同時代社社長の川上氏より乾杯と一言を」
「ビールの栓も抜かれて、並んでおりますので、まずカンパイから……カンパイ !
大手、中小をのぞいても零細出版社が、4000社・年間出版点数4万3000点という日本の現出版状況の中へ新たにのり出すということは、平田君なりに、覚悟はあると思いますが、お祝いを述べるのも、複雑な気持ちです。同時代社も今年の12 月には創立5周年を迎えます。まあ将来は同時代社を吸収合併する程(大きな笑い起こる)大きく成長することを希っております」
つぎに新社長平田勝氏の30分にわたるあいさつは、別記にありますので省略。
その他の主な発言
B「平田君も出版という事業にのりだすからには、資本の鬼となって、今までの人生のようにきれいごとで済まさず、手を汚す覚悟もしてほしい」
C「いや、平田君は、経営者としての才もあると最近わかってきた」
D「先程、きれいごとでは事業はできぬというご指摘もありましたが、ボクは、平田君が、人生の後半生を『こころざしの出版』にかけると聞いて、大変嬉しく思うものです。手を汚さずに、自分の夢を実現する人が平田君だと思い、私はその生き方に心から応援したいと思っています。ここに花伝社の第一作として『戦後の思想家たち』を今日 、拝見しました。『戦後』にメスを入れたものとして、期待しています。」
E 「私は、ある総合雑誌の編集長になったばかりのものですが、大手出版社も方向転換しており、マスセールに対して反省の時代に入ってます。この『戦後の思想家たち』が3000の刷部数とお聞きして、いいセンいってると思いましたのは、大手も、3000部売れる本を作って完売しよう、その積み重ねが企業存続につながるという発想になってきました。それから、これは、今後の平田氏への期待ですが、出版人は『匿名の情熱』に徹するべきだと思うわけです」 (拍手「『匿名の情熱』っていい言葉だね。あなたの言葉ですか。」「いや、誰がいったのかは知りませんが……」のやりとりあり)
遅れて来た人も含めて、励まし、訓戒、ヤジ的発言など多く有り、最後に平田夫人からのあいさつ。新役員の発表と承認をもって、創立総会終了。
A「これで花伝社創立総会は終わります。まだ発言していない人、足りない人も多いと思いますので、落第横丁「ピグ」にて二次会を行ないますので、時間の許す方は御出席願います。ありがとうございました。」(大きな拍手)
ところが「ピグ」は5時開店。今はまだ4時すぎ。雨あがりの東大本郷キャンパスをブラブラ探索。二次会はさらに出席者の人柄を反映してか、花伝社に対する鋭い意見、出版企画などワイワイガヤガヤ。めぼしい所をひろってみますと、
中村「私はこども3 人かかえておりますので、帰宅時間が追ってます。先に発言させて下さい。平田さんとは1 7〜8年来のつき合いで出版界に身を置いていたものですが、このたび平田さんの協力者として、花伝社で働くことになった者です。よろしくお願いいたします。私の考えは、『開かれた出版社』をやりたいということです。平田個人の出版社というだけでなく、ここにお集まりの皆さん全員、そしてこれから愛読者になって頂ける方々の出版社ということです。そのために、編集委員になって下さる方を募って大いに意見を出して頂ける機会をつくっていきたい。皆の求める出版活動をしていきたいのでご協力下さい」
平田夫人「今の平田は、家でもさっきあらたまって述べたようなことをいっていつもあんな風な堅い言葉でしゃべっています。(わぁー、たまらねえや、のヤジ)今度の『戦後の思想家たち』のカバーの色を決める時も大変でした。一時間位じっとながめ、しばらくしてまたながめ、翌朝またながめて、「うん、実にいい色だ、あきない」とつぶやいていました。本が出来た日は、他の本10冊位と一緒にならべ、小学一年生の女の子を呼んで「どの本がいちばん目立つ ? 」「これ、お父さんの本が一番目立つ」の返事に、「おおよしよし、真咲(娘の名)はやさしいな」というんです」(うーん、いい話だ、平田さんらしいの声あり)
F 「今、ボクは父子家庭実施中なんだ。妻が一年半の研修でアメリカに行っているんだ」
N「大変ネ、その実践録、本にならないかナ」
F「や、父子家庭はもう古いよ。それより今は『夫の危機』が問題なんだ」
G「うーん、なる程。『夫たちがあぶない』だナ、実感あるなあ」
人生の折り返し地点に来ている四十代の男たち、しばし、感じ入る。思わず本音が出て、企画案となりました。あっという間にウイスキー3本が空ビンと化し、8時解散。まだしゃべり足りぬ飲み足りぬという人々は一路新宿へ、午前1時の解散とのこと。その詳細はお伝えしかねますが、翌日のある出席者からの報告「非常にさわやかな気持ちよい一夜でした」にすべてが言い尽くされていると思います。ご推察の程を。
集まった面々は、若手研究者あり、出版・マスコミ関係者あり、彫刻家、画家あり、今売り出し中の推理小説作家あり、官庁や企業の第一線で活躍中の者ありといった、実に多士才々で、なにやら、おもしろそうなことになりそうです。
以上が創立総会のあらましです。あとは今後の活動を待つのみとなりました。どうか心からのご声援をお願い申しあげます。
当面の花伝社の課題は、『戦後の思想家たち』3000部の完売です。中には2週間で30冊を一気に売って下さった方もおられます。花伝社の活動がうまくすべり出しますように、この第一冊目の本をぜひ一人でも多くの友に買って頂きたいと存じます。そして、花伝社の第2冊目を年内に出版すること。来年一年間に4~5点の花伝社の本が送り出される予定です。いい企画、自薦他薦を問いません。お寄せ下さい。(中村記)
山田教授からのメッセージ
平田勝君が花伝社をおこして出版事業の第一歩を踏み出したことを心から祝福します。
今日の出版界は困難をきわめ、また好ましからぬ風潮に満ちています。だからこそ平田君は、それを承知であえて挑戦したのでありましょう。挑戦者の道が平坦なものであろう筈はなく、60年安保闘争以来のさまざまな体験を生かして、みごとその困難な道を踏破されることを期待します。
私の文字どおり拙ない著作が花伝社の出版第一号の名誉を与えられてしまいました。それが花伝社の門出をつまづかせることにならぬよう祈ります。
山田 洸 1985年10月5日
その2 時代にこたえればキチンと売れる
(『元気凛凛 日本の小出版』柘植書房、1993年刊より) 花伝社社長 平田勝 聞き手 渡辺美知子
◎出版を始めたのは、いつごろですか?
花伝社を設立して7年になります。かつて20年くらい前に一度、出版社にいたことがありまして、その後はいろいろな事情から、他のことをやっていましたが、もともと編集の経験はありました。
◎始めるにあたって困難はありませんでしたか?
しばらく出版からはなれていましたし、出版社にいたことがあるといってもほんの短期間で、また、会社を経営した経験はもちろんありませんから、現在の出版界がどうなっているか、関連する本を何十冊も買いこんで研究しました。出版界にいる友だちにもずいぶん話を聞き、相談もしました。そうしながら、設立の手順や出版の方向性について自分なりの方針を練り上げました。もう若くはないから失敗は許されない、と。実際にやってみて、出版は覚悟していた以上にきびしいこともよくわかりました。
◎例えばどんなところが?
出版は「注文生産」ではなく完全な「見込生産」だということですね。自分では「これはいい本だ」と思って出すわけですが、それが読者にどう受けとめられるかということです。「出版は水もの」という言葉がありますが、確かにフタを開けてみないとわかりません。堅い本が一般に読まれなくなっているという現実もあります。安易な本づくりをやっていてはとても成り立たないということもよくわかりました。
こうした現実はわかっていたことでしたから、設立時に相談にのってもらった人たちは、私が出版社を始めることにだれひとり賛成してくれませんでした。まあ、そうした意見を聞きながら、ますます決意を固めていったところもあるのですが(笑)。
◎花伝社を始められた動機は?
私が出版社をやろうと決意した1985年は、ゴルバチョフが登場した年です。日本経済が大きく変貌する起点となったプラザ合意が結ばれた年でもあります。直観的に「時代は動く」と思ったのです。いま、どういう時代の流れにあるか、出版を通じて考えてみたい、これが一番の動機ですね。
◎事務所は初めから、ここですか?
この事務所の隣に私の先輩が一足先に始めた出版社がありますが、最初はそこに居候させてもらい、いまは倉庫になっているところを借りて、机1つ、電話1本で始めました。
こうしたやり方で始めたのは、このきびしい出版状況を考えると、最初から「格好」をつけてしまっては、たぶん失敗する可能性が高いと思ったからです。要するに、本を出せる必要最小限の状態から出発しよう、と。潤沢な資金的な準備があるとか、何かバックがあれば別でしょうがね。力がついてきたら、それに応じて少しずつ態勢を整えていこうと。
これが設立の準備期間中に得た結論です。でも、これがうちのつづいてきた要因ではないかと思っています。
いまの事務所には、かつてここにあった会社が倒産して、たまたま部屋が空きましたので、移ってきました。でも、5坪しかありません。
◎それはいつごろですか?
出版社を始めて2年目の時です。机1つの会社が一挙に5倍になりました(笑)。
◎花伝社という名前の由来は?
学生時代からの愛読書であった、世阿弥の「花伝書」からいただきました。「花伝書」とは、まさに秘伝で、明治の末ごろから一般の人も読めるようになったものです。その中には、「花伝書を読んだことはもちろん、花伝書というものの存在を知っていることもけっして口外してはならない」と書いてあるんですよ。だから、これを社名にしてしまうなどということは、本当はその教えに反しているのでしょうが(笑)。では、なぜこの名前をつけたかは、それこそ花伝書の奥義に関することなので、残念ながら「企業秘密」で申しあげられません(笑)。
◎出版社を始められて、いま、どんなご感想ですか?
覚悟していたとおりのきびしさですが、やはり決断してよかったと思っています。感激の連続でもありました。設立の時、大勢の友人たちが協力してくれたこと、再会や新しい出会いがたくさんあったこと、それから、それなりの本を出せば、たとえ無名の出版社であっても取次や書店さんもそれなりの扱いをしていただけたこと、読者もそれなりの反応を示してくれること、そして、なによりもうれしかったのは、毎日たくさんの本が出版されているなかで、花伝社で出版した本が、あちこちの新聞の記事や書評でとりあげられたことでした。これが、その書評・記事などのコピーの一部ですが。
◎すごい量ですね、このファイルは。厚さが2センチくらいあります。
最近では、出した本はなんらかのかたちで取り上げていただけるようになりました。とくにあちこちで取り上げていただいたのは、木村斉さんの『足物語』、アムネスティ日本支部の記念出版『希望色のエアメイル』、荒このみさんの『女のアメリカ』、宮城正枝さんの『出会いのアメリカ』、小高利根子さん訳の『さよならブラジル』、加藤哲郎さんの『東欧革命と社会主義』、谷川道子さんの『聖母と娼婦を超えて』、最近の川人博さんの『過労死社会と日本』などでしょうか。
『足物語』が読売新聞の教育欄に大きく紹介された時は、4〜500本の電話がはいりました。1日に100点の単行本が出版される状況のなかで、無名の出版社の本をこのように取り上げてもらえたのは、非常な感激でした。
出版界にもいろいろ矛盾や問題があるでしょうが、たいした資本力もない机一つの新参者がこのように参入でき、また、それなりに評価されるということは、出版の自由が生きている証ですから、それを実感できたことは、ものすごい感動でした。私は運もよかったと思います。いい書き手にめぐまれたことはもちろんですが、装頓家も、廣瀬郁さんや加藤光太郎さんなどを友人を通して紹介していただきました。本づくりは最初から風格のあるものにしたいと思っていましたから、この方々がどのくらい偉い方かなど全然知らないで、ずいぶん無理もお願いしましたが、いつも快くきいていただきました。さらに、軌道に乗るまでには、すぐれた編集者の協力もありました。
◎いままでに何冊の本を出しましたか?
やっと50冊になりました。最近では年間8~10点ぐらいのペースになってきているでしょうか。たくさんの原稿も抱えこんでおりますので、月1点ぐらいのペースにしたいと思っていますが、このへんが限度でしょうか。いまのところ、いわゆる正社員は1人もいません。
◎えっ、ではさっきいた方は?
パートの方です。いまは3人の方に週に3~4回、交替で来てもらっております。最初は、子育てが少し楽になって何か有意義な仕事がしたいと思っておられた友人の奥さんなどが交替で詰めてくれました。
ここでも友人に助けられているわけです。あとは社長の私だけですから、花伝社は社長が元気であることが、絶対の条件です(笑)。
最初から正社員を雇ったりすると、たぶん経営の論理が先にたって、自分がいいと思う本、自分が出したい本ばかりを出し続けていくことは不可能かも知れない。志を貫こうと思うなら、必要最小限の態勢にしておいて、あとは社長ががんばる、と。
1年前にパソコンを導入したばかりですが、これを最大限に生かすことができれば、「必要最小限の態勢でいい本を作りつづける」というこの方向は、実現可能ではないかと思っています。
◎ 1冊1冊に思いはおありでしょうが、とくに印象に残っている本は?
『資料・国家秘密法』という本でしょうか。出版社をつくって二年目に出しましたが、B5判、300ページを超える大きい本で、定価も5000円でした。
国家秘密法が問題になったころ、友人のつながりで、横浜弁護士会から頼まれまして、引き受けました。
こんなものを引き受ける出版社はなかったと聞いています。ところが、出版したとたん、あちこちの新聞でとりあげられ、なんと増刷にもなりました。編集にあたっていた若い弁護士さんが、過労で突然なくなられたということもあり、大勢の人々の関心と感動を呼んだのだと思います。秘密法関係の本の決定版として、いまでも役に立つといわれています。
◎本クロスを表紙につかった、すごい本ですね。
もう1つ、背には銀箔が押してあります。これは花伝社の出発点ともいえる本です。でも、出した時は、これで花伝社はつぶれるかもしれないと覚悟しました。じつは先ほど述べた弁護士さんの葬儀の時、私は腹をかためたのです。彼のためにも、りっぱな本にしようと。
これで度胸がつきました。定価がどうとか、内容が堅いかどうか、とかいうような問題は決定的な問題ではない。秘密法は日本の国家の基本に関する問題です。このように時代の要請に応える本であれば、読者は受けとめてくれる、キチンと売れるということです。
渡辺治さんの『現代日本の支配構造分析』も印象ぶかい1冊です。これも始めて間もないころの本です。渡辺さんは当時、東大の若手の助教授でした。現在8刷りです。堅い内容ですが、部数は持続的に伸び、かなりいろいろな人に影響を与えています。
あとは『希望色のエアメイル』。「人権は売れない」ということで、この手の本を手がけてきた出版社にはたいがい断わられたと聞いています。膨大な量の原稿なので、普通だったら半分ぐらいに圧縮するところですが、読んでみたらすばらしい内容なので、私は1行も削りませんでした。
定価1800円で、なんと初版8000部も刷ってしまいましたが、2年半でほぼ完売しました。もちろんアムネスティの人たちのがんばりによるものです。
このように、大きな出版社がしりごみする本を、小出版社ががんばって成功させたというようなことも、小さな出版社の存在意義ですね。大手出版社では採算が合わなくとも、小出版社でも2、3000部で充分行けますからね。まあ、成功ばかりではありませんが、成功するとこたえられない(笑)。
『東欧革命と社会主義』も、書評でずいぶん取り上げられました。著者の加藤哲郎さんも若手の学者で、従来のワクをとっぱらった考え方をする方です。初版4000部で現在3刷りです。小さな出版社で初刷4000部というのも、かなりがんばった部数ではないかと思います。
◎いいものを出せば、きちんと手応えはあるんですね。
ええ。出版不況といいますが、ぼくの実感では、内容があれば、それなりに読者は受けとめてくれると思います。本当に自分でもあきれるぐらいにクソ真面目な本ばかりを出していますが、これまでなんとかやってくることができました。
◎そうですね。
花伝社のキャッチフレーズは、「自由な発想で同時代をとらえる」です。これまでの概念のワクとか立場というものにとらわれずに、論議していこうということです。文章や構成は多少粗削りでもよい、その著者が自由な精神で時代に迫ろうとしているかどうか、が重要だと思っています。花伝社を設立したころは、私と前後同世代の書き手が40代となり、そろそろ研究をまとめたいという、いわば書きごろとなっていた時期でした。そういうこともあって、花伝社は同世代の友人の応援によって設立された出版社であるとともに、こうした同世代の書き手が登場する出版社となったのだと思います。なにしろ私は大学に8年もいたものですから、単純に計算しても普通に卒業した人の2倍の友人がいます(笑)。書かせたい人は無数にいるわけです。
ですから、花伝社で初めて本を書いたという人もけっこう多いのです。5割くらいがそういう著者です。このことは結果として大変よかったのではないかと思います。無名であっても、何かキラリと光るものを持っている人が、新しい出版社を舞台に新しい主張をどんどん行なうということで。書評などによく取り上げられたのもそういう新鮮さが評価されたのかもしれません。
でも、当初掲げた理想や目標をどこまで達成できたか、自分としては反省の毎日です。だれしも最初は「志」を口にしますが、これを続けるのは大変きびしいのが現実だと思います。
◎流通は、やはり書店中心ですか?
書店のルートだけでやっていくのはむずしいのではないか、と最初から思っておりましたので、読者に直接働きかけること、読者網を組織することをコツコツやってきました。新刊を出すごとに、著者から関係の名簿をいただいたり、友人に紹介してもらったり、読者カードをたどったり、学会名簿を手に入れたと、根気よくやってきました。場合によっては、5割以上が直販で売れたというようなこともありました。
パソコンを使って、新刊がでるたびに関係する読者のところへ案内をだしたり、書評や記事などの情報も読者に返していくようなシステムをつくるのが当面の目標です。
◎すごいですね。
著者自身が普及して歩く、講演するたびに会場に置いてもらう、ということもあります。さっきのアムネスティの場合などは、団体としても取り組んでいただけました。こうした方法と書店ルートの2本立てでやっておりますが、これも小さな出版社が生き残る秘訣ではないかと思っています。
◎最新刊は、どのような本ですか?
丸山昇先生らの翻訳になる『地図を持たない旅人』です。これは右派として攻撃され、文化大革命の時は自殺をはかり、かろうじて一命をとりとめた、中国文壇の長老の蕭乾(しょうけん)という方の自伝です。天安門事件以後、中国物はまったく動かなくなったといわれていますが、中国知識人の貴重な精神史ということで、あえて引き受けました。フタを開けてみないと売れるかどうかわかりませんが。
もうひとつは、『韓国心の旅』という本です。韓国の若手の書き手によるエッセイ集で、直接的にはハングル語の学習のための本ですが、韓国の若い世代の内面を知るうえで意義のある本ではないかと思っています。NHKテレビのハングル語の講師である早川先生の翻訳と注による本ですが、ここに収録されたエッセイは、すべてこの出版のために書き下されたものです。
◎出版界の現状については、いかが思われますか?
私は出版を始めて本当によかったと、心から感謝もし、感動もしております。ですが、いまの出版界が大変な時代に来ていることも感じます。否応なしに淘汰の時代にはいっているような感じもします。
さきほども言いましたように、現在の日本において、出版の自由がともかく生きていること、このことは大変すばらしく、ありがたいことであるのですが、この自由のいっそうの発展の中にこそ、いまの状態を打開する道があるように思います。
時代が激変するなかで、新しい出版社もどんどん生まれる。新しい動きや企画や冒険、野心的な動きがどんどん生まれる。その自由競争のもとで、時代の要請や読者の心を真につかんだところはどんどん伸びてくる。反対に、どんなに大きな出版社であろうと、権威の上にアグラをかいていたり、時代の変化をつかむ努力を怠っていたりして、時代から立ち遅れたものは淘汰される。こういうことで出版界が全体として活気を帯び、また、その中から読者の心をつかんだおもしろいものがでてくる、ということではないかと思います。
◎小さなところも大手と対等に勝負できるわけですよね。
ところが、取次の取引き条件ひとつをとってみても、基準の明確でない格差や慣例・慣行が存在している。むしろ、新規の出版社が参入できる条件はますますきびしくなっているのが現状ではないでしょうか。
もちろん、出版点数の過剰の問題とか、返品の問題とか、いろいろ難題をかかえていることも事実でしょう。しかし、出版の自由を閉ざす方向での解決はけっしてありえない、既存の出版社の既得権だけが守られ、あるいは既存の出版社だけの出版の自由が守られれば、それでいいのだというようなことでは、それは出版界の沈滞をもたらすだけではなかろうかというのが私の感じです。
私のつたない体験からしても、出版とはどんなに小さなところでも、時代をつかみ、勝負できるところにおもしろさがあり、その中からいいものも生まれるのではないかということです。言論界から自由がなくなったら、おしまいですから。
(1992年11月20日)
その3「平社員」と「平社長」
花伝社社長 平田勝
花伝社で出版した『誇り高き平社員人生のすすめ』(2000年6月刊)の著者、小磯彰夫氏が主催する雑誌『誇り高き平社員』創刊号(2001年1月)に寄稿したもの
「平社員」という言葉に対して、「平社長」という言葉ないし概念が存在するかどうか、あるいは存在しうるかどうか知らない。大企業の「大社長」という言葉は、間違いなく存在しているから、私などが細々とやっている零細小出版社の社長などは、まさしく「平社長」とでも言える存在でしかないだろう。
そういう規模の大小という問題以上に、その生き方ないし矜持の持ち方において、小磯さんの生き方や今回結成された「誇り高き平社員友の会」に参加された方々の生き方に、なにか共通したものを感じ、私もこれに賛助会員として参加させていただいた次第である。
花伝社という、まことに小さな出版社を立ち上げてから、無我夢中でやっている間に、もう15年がすぎた。最初は一足先に出版社を設立した先輩の倉庫部屋の片隅に、机一つ、電話一本を置かせてもらって出版社をはじめた。
開業資金などゼロに等しい中で、なにか恥ずかしい思いも多少感じながら、何人かの友人におずおずと援助と株主への参加をお願いしたところ、30名近い友人たちがこれに応じてくれた。このときの感激を決して忘れてはならないといつも心に言い聞かせている。
資本金450万円で産声を上げた花伝社は、印税や原稿料などいらないからと言って、自分の長年の研究結果や原稿を持ち込んでくれる友人、いろいろな情報を提供してくれたり、著者を紹介してくれる友人、さまざまな有益な助言をしてくれる友人、そういう人々に支えられてなんとかここまでやってこれた。
花伝社にはいわゆる正社員と呼ばれる人は現在でも一人しかいない。発足当初は子育ての忙しい時期をすぎて、何か面白くかつ有益な仕事に参加してみたいというような、友人の奥さんや紹介された主婦のパートの力にすべて支えられていた。
必要に迫られてそういう方法をとったのだが、女性のパワー、元気のよさ、まさに女性の時代がきていることを実感できたのは、予想外の収穫であったが……。
最近は出版界も技術革新・情報革新の波が著しく、パソコンの操作など出版における高度の知識と技術を持った人がどうしても必要なことから、すべて主婦のパートだけでやるというわけにはいかないが、基本的な体質は発足当時とほとんど変わらない。
会社を大きくすること、組織を大きくすること、利益を上げるということが最大の目的ではなく、そこにおいていかなる内容の仕事をするか、いかなる価値を生み出すか、出版社である以上そこにおいていかなる本を出版するのか、同時代におけるメッセージ性をもっているものをいかに出すかということが目的のすべてであり、そのための必要最小限の体制でやってゆこうということであり、また出版をこういう方向性でやる以上、今日の出版界の現状を踏まえれば、こういうやりかた以外にないということで、今日までやってきた。
もちろん現実は厳しい。花伝社はいわば非資本主義的論理によって支えられ、存続し得てきたとはいえ、たとえ小さな会社とはいえども資本主義社会において存在している以上、資本主義的論理を無視して存在することはできない。毎日が悪戦苦闘の連続といえる。
しかしこういう方向性がなくなったら、採算性や利益性だけが最優先の出版社となってしまえば、自分の存在根拠は消失し、自分を応援してくれた大勢の友人の期待を裏切る結果となると、いつも自分を叱咤激励している次第だ。
こういう非資本主義的論理の花伝社がともかくも15年存続し、160点の出版物を世に出すことができたということは、何か不思議な思いもする。
出版社をやっていると、出会いの不思議さをしばしば感じる。小磯さんの場合もまさにそうだ。小磯さんとは数年前にある出版記念会で名刺交換しただけの間柄だ。もちろん小磯さんの存在、またベストセラーになった『富士銀行行員の記録』も読んでいたが、それまで直接の面識は全くなかったといえる。
その小磯さんが出版社など無数に存在している中で、あえて花伝社に出版の依頼をされた。原稿を一読し、よくぞ花伝社をたずねてくださったという思いで即座に出版を了承した。
あえて平社員として自分の生き方を貫き、また現職の銀行員であることを堂々と名乗って、出版しようとした心意気に感銘したことはもちろん、もう一つ驚いたのは小磯さんが自分の生き方に日本の下級武士の生き方、その思想を重ね併せて、考えておられたことだ。
私の恩師であり、学士院の会員であった相良亨先生が長年この「武士の思想」の研究をやってこられた。先生の著作集が完結したのを機会に、先生の本をどうしても花伝社で出したいと先生に申し込んだところ快諾をいただき、この著作集に入らなかった文章を中心にまとめて、『日本人の心と出会う』という本を花伝社で出版させていただいた。
この中で触れておられる、武士の思想から現代の我々が学んでゆく必要があるという同じ趣旨のことが、小磯さんの原稿にかかれていたことに、また不思議な感銘を覚えた次第だ。
相良先生は残念ながら平成12年の10月になくなられた。
先生の、武士の思想を含めて、この日本列島に住み着いた日本人の思想・生き方とは、「おのずからの生き方」、「おのずからの思想」にあるというのが晩年の先生の到達された結論であったように思う。くだけて言えば宇宙の「大いなる流れ」の中で、自然体で生きるということであろうか。この生き方とは決して受動的・消極的な生き方ではなく、極めて自由で積極的な日本人の生き方なのだということを強調されている。
不肖の弟子である私がとらえた相良先生の、この「おのずからの思想」については、また機会があれば書きたいと思っている。
いよいよ21世紀を迎えた。お金や物質的繁栄、世俗的な栄達だけに目を奪われることなく、限りある人生、限りある地球環境の中で、シンプルで質素であっても、自由で充実した人生を選択したい―そういう思いを抱いて、主体的な生き方を選択している方々のネットワークが「誇り高き平社員友の会」の人々だと思う。
さまざまな生き方をしている面白い方々にたくさん出会えることを楽しみにしている。
その4 花伝社創立25周年にあたって
花伝社社長 平田勝
この文章は、2010年8月、創立25周年を目前にして、花伝社スタッフによる社長へのインタビューの記録をもとに再構成したものである。
1 花伝社小史
──花伝社創立25周年を迎えるにあたって、いまどんな感想をお持ちですか。
花伝社の創立
1985年10月5日、花伝社の創立総会を東大本郷の赤門近くの学士会館別館で行いました。あれから25年、あっと言う間に過ぎた感じです。
この出版不況の中で、よくぞここまで続けてくる事が出来た。ここまでくるのに、本当に大勢の方々の支援や力をいただく事が出来た。ただ感謝の気持ちで一杯です。
花伝社の創立総会については、最初のスタッフが花伝通信の第1号でその雰囲気を伝えてくれています(この通信は、花伝社のあゆみ その1に収録)。
今回のインタビューを受けるに当たって、創立当時の資料をいろいろめくって見たのですが、創業の時に考えていたことやその方向性が、現在もほとんど変わっていないことに少し驚きました。
ともかく小さな出版社を25年続けてきたのですが、このあたりで一度総括しないといけない。25年というのはあくまでの通過点であり、大切なのはこれからどうするのかということです。節目の年に当たり、丁度いい機会ですので、花伝社のスタッフから質問を受ける形で花伝社の来し方をお話しながら、これからのことをいろいろ考えてみたいと思います。
──花伝社がここまで持続できた要因をどのようにお考えですか。
花伝社の創業の志、その方向性は花伝社の創立宣言にすべて言い尽くされていますが、花伝社が持続できた大きな要因は2つあると思います。
第1は、「自由な発想で同時代をとらえる」という出版の方向性を文字通り一貫して追求してきたことにあると思います。
第2に、今日の出版界の現実を踏まえ、「必要最小限の体制」で本の内容の実現に集中するという手法が現実に合っていたのではないかということです。
自由な出版という方向性については後に触れるとして、まずこの「必要最小限の体制」で出版を行うという方法からお話ししたいと思います。
「机一つ、電話一本」で始める
私が花伝社を立ち上げたのは44歳の時でした。もう若くないから失敗は許されないということで、設立の準備に数年をかけました。関連する本を20~30冊読んだり、出版界にいる友人たちにも会って出版がいまどうなっているかいろいろ話も聞きました。会社を始めることなど初めての経験ですから、出版という商売を始めるからには「商売の神様」からもいろいろ学ぶ必要があるということで、松下幸之介の本も何冊も読みました。
こうして得た結論が、「必要最小限の体制」で行くしか出版を持続出来る方法はないということであったわけです。開業資金などほとんどゼロに等しかったという自分自身の現実からもそうせざるを得ませんでした。
そして、花伝社は「机一つ電話一本」の文字通り「社長一人」の会社として出発しました。先輩が一足先に始めていた出版社の倉庫部屋の一隅に机を一つ置かせてもらい、間借料月1万円を払って、出発したわけです。
最初は主婦のパートから──良きスタッフに恵まれる
最初のスタッフは、かつて大学の卒業前後にほんの4年間だけ在籍した新日本出版社時代の同僚でした。女傑といったタイプの方で、こちらが社長をやった方が花伝社はもっと伸びていたかもしれません。実はもう一人、やはり新日本出版社の同僚で非常に博学で優秀な男がいて、彼と一緒に出版社を立ち上げようということで準備を進めていたのですが、創立総会直前に「自分は下りる」と言ってきたのです。しかし「俺はやるよ」ということで一人で花伝社を始めました。
最初のスタッフは、丁度そのころ旦那さんの仕事の関係でタイに行っていたのですが、帰国した際に花伝社の話をしたところ、「私が手伝う」と言ってくれたのです。
机一つの会社ですから、彼女がパートで勤務してくれることになっても、最初は彼女の座るイスも机もありません。そこであちこちの喫茶店で打ち合わせをしながら、彼女が創立直後の私の相談に乗ってくれました。
実は、これが大変助かったのです。本を出すまでには、いろいろ多くの決断をしなければなりません。ひとりで何もかも決めるということではなくて、いろいろと相談し意見を交わしながら作り上げることができたのは、大変良かったのです。
設立から5冊目の本に『お母さんのための子どもの発達講座』という本があります。
これは大変評判になって11刷、2万4000部まで伸びました。設立直後に売れる本が出たのは花伝社の基礎を固める上において大きかったのです。もともとは、ある雑誌に連載されていたものを一冊の本としてまとめたのですが、これをまとめるに当たって、どういう構成にしたらいいか、どういう風に手を入れたら読みやすくなるかなど、喫茶店で一字一句やったのです。主婦感覚、子育ての経験も本造りに充分反映されました。
また私自身も、この作業をしながら、数年にわたる法律の勉強(司法試験の受験勉強)でガチガチになっていた頭が次第に揉みほぐされ、編集の勘が戻ってくるのを実感しました。
設立2年目から、彼女の他に3名の主婦の方たちが「パートでやりたい」ということで参加してくれることになりました。3名でローテーションを組み、1週間に3日ずつ事務所に詰めてくれました。
手当ては当時一人あたり6万円程度だったと思いますが、この女性たちが実によく働いてくれました。この40歳前後の女性たちは、なかなか元気なイキの良い女性たちで、僕が出版社を始めたことを知った友人から「俺の女房を使ってくれ」といった申し込みがあったりと、いろいろ偶然もありましたが、結果的に優秀な人たちが集まったのです。
彼女たちは、20代前半に結婚して、子育ても一段落し、さてどうするかという頃です。みなさん高学歴でエネルギーに溢れている。東大教授の奥さんもいました。ある週刊誌の編集長の奥さんもいました。専業主婦で終わりたくないという強い気持ちがある。家計のためにスーパーなどでフルタイムで働くというような必要性もない。というわけで、勤務も週3日で、仕事は5時には終わる。文化的な仕事にタッチ出来るし、たとえわずかでも自由に使えるお金も入る。主婦たちで食事をしたり文化的な趣味にも自由に使えるということで、主婦たちにとっても丁度よかったのではないかと思います。
後から考えますと、本当にこういうよきスタッフに恵まれたスタートで、この人たちがどんどんやってくれたということが大きかったのです。主婦のパートたちの奮闘で、花伝社の骨格はこの頃出来あがったのです。
また、この主婦のパートたちは元気ですから、狭い事務所で笑い声やお互い活発な声を出して働いています。彼女たちのいる活気のある部屋ではうるさくて仕事になりません。しかしこのような雰囲気や勢いは押さえてはならないと思いました。そこで、編集などの仕事は、なるべく朝早く起きて自宅で仕事をし、著者や印刷所への連絡も自宅で午前中に済ませ、午後から出社して社長業としての雑務をこなし、彼女たちの引き上げた午後5時からまた編集の仕事に集中するという私の活動スタイルも確立しました。能率良く集中的に仕事をする上において、このようなスタイルが確立したことも大きかったのです。
主婦のパートたちの驚くべき活力
設立3年目から、花伝社の本格的な出版活動が始まりました。
山田洸さんの『和辻哲郎論』。僕の後輩でNHKの中国語講座のディレクターをやっていた鈴木英明氏の『北京の生活』。荒このみさんの『女のアメリカ』。彼女は、僕の女房と一緒にAFSの交換留学生として高校時代にアメリカに留学した方という縁で出版させてもらうことが出来ました。花伝社の10冊目の本となった渡辺治氏の『現代日本の支配構造分析』。この方は、いまや日本の政治学・憲法学の代表的な学者となっていますが、当時はまだ東大助教授でした。この本を出したことは大きかったのです。この本は各分野で活躍している実践家や若手の研究者などに大きな影響を与えた本ですが、これを出版したことで、花伝社に原稿が次々と持ち込まれてきました。若手研究者を代表する一橋大学の加藤哲郎氏の『ジャパメリカの時代に』や同じく一橋大学の藤田幸一郎氏の『狂気の近代』の出版も大きな意味を持ちました。弁護士界の長老で、元自由法曹団団長の上田誠吉先生の『人間の絆』の出版の意義も大きかった。先生は残念ながら昨年亡くなられましたが、上田先生の本の出版が花伝社が弁護士界に強くなるきっかけとなりました。
このように初期の頃に、内容のある水準の高い本を出し得たということもありますが、こうした本を主婦のパートたちが頑張って、新刊を出すために勢いよく全国の主要書店にぱーっと電話をかけ、事前注文を1週間ほどで1000冊近くも取ってしまう。この主婦たちの活動で、花伝社独特の営業スタイルも確立したのです。また、この頃から花伝社の新刊が全国の主要書店に平積みも含めて並べられるようになったのです。
後に、出版社の営業を長くやったベテランに聞いたところ、これは凄いことだと言うのです。従来どおりの書店営業のやり方で1000冊もの注文を取ろうとすれば、相当数の選任スタッフと営業経費をかけなければ不可能ということなのです。
パートの主婦たちの力でこうしたことをやり遂げることが出来ました。このことにも見られるように、営業においても「必要最小限の体制」で効果をあげるという形が出来上がっていったのです。
3年ほど主婦のパートたちのローテーションでやっていたのですが、彼女たちが「もう辞めたい」と言ってきました。なぜ辞めたいということになったのか。
それは、僕の後輩で、大学の寮で一緒だったある自民党代議士の本を出版することになったのが契機でした。彼は後に橋本内閣で大臣にもなりました。これはもうバリバリの自民党の本です。この代議士の事務所で横柄に扱われたと言うことで嫌気がさし、こんな自民党の本を出すならもうやっていけないと言い出しました。
花伝社は当初から自由な出版を目指していました。自由な出版とは、政党政派にとらわれずに出すべき本を出していこうということも含まれています。行き方が違うから仕方がないと思いましたが、一人が辞めると言ったら「みんな辞めよう、辞めよう」というような雰囲気になってきまして少し困りました。当時パートの女性たちは5名ほどになっていましたが、一人の女性だけは、「花伝社はそれだけ価値のある出版社だと思います。私は続けます」と言ってくれました。彼女はその後も仕事を続けてくれ、ご主人が病気で倒れるまで約10年の間、花伝社のパートとして働いてくれました。
こうして主婦のパートだけの時代は終わりましたが、フルタイムの専任的なスタッフが絶えず一人は存在するも、後はパート的なスタッフで事務所を維持するという時代がその後も長く続きました。花伝社はまだスタッフの数は少ないとはいえ、いまや正社員中心の会社となっていますが、こうした原点を忘れてはならないと思っています。
終電車まで頑張る
「必要最小限の体制」で出版活動を行うということは、あとは社長が頑張るということです。あらゆることを一人で頑張りました。廊下の明かりを消し、入り口のカギを閉めて古い雑居ビルから退出するのも大概私が最後でした。
1993年に父が亡くなりました。父の期待にも充分応えられなかったということで、大変ショックを受けました。俺は何をやっているのだということで、少し精神的に焦りも生じていたと思います。
この頃は、もう年間12~15点ぐらいを出版するようになっていましたが、編集は一人で行っていました。かなり無理をして頑張りました。事務所で仕事をする場合は、大体終電車までぎりぎり働く毎日です。横須賀線の最終、それに乗り遅れた場合は、ホームを急いで移って東海道線の最終、それにも乗り遅れたら、京浜東北線の最終列車に乗って大船まで行くか、新橋から出ている鎌倉直行の深夜バスで帰るというような生活です。
著者との付き合いの必要性もあって酒も随分飲んでいました。昼飯を食べる時間もない日が多く、夕方になってからガツガツ食べるような毎日です。
とうとう1996年の夏に、事務所で仕事をしていた夕方、猛烈な腹痛に襲われました。自宅にたどり着いても痛みは消えません。救急車を呼ぶのもシャクなので、朝まで我慢して翌朝病院に行きました。急性胆のう炎ということで医師から、胆石の緊急手術を勧められました。胆石の手術というのは石だけを取り除く手術ですかと聞くと、胆のうそのものを摘出する手術だというのです。胆のうは胆汁を溜めておくだけのもので、盲腸の手術と同じようなものだというのです。人間の体に不必要なものなどあるはずはないと思い、友人の医師と連絡を取って助言をもらおうとも考えたのですが、医師の、「あなたには他にどこも悪いところがない。手術をすれば5日ぐらいで退院できる」という言葉で決断しました。医師の顔をじっと見ると誠実そうな表情です。この医師に自分の体をゆだねようと決意しました。
社長が倒れたら花伝社はそれでお終いです。私が入院した時が花伝社の1番のピンチの時であったと思います。しかし、医師の言葉どおり、事実5日で退院出来、活動に復帰出来ました。その後も15年近く元気で活動しておりますから、医師から言われたように幸いにも悪性の病気になっていなかったことを今では大変有り難いことだったと感謝しております。このことがあってから、体調や健康に留意するようになりました。いつも歯止めをかけ、これ以上は無理だというような自制をきかせるようにもなりました。酒の飲み過ぎも押さえるようになりました。痛い目にもあいましたが、いい薬になったと思っています。
この社長の入院と手術という危機にあって、まだ採用したばかりであった女性スタッフが一人で頑張ってくれました。彼女は、大学を卒業したあと大銀行に勤めていたのですが、そこを辞め、「自分はむしろこういう全体が見渡せる小さなところで働きたい」と言って花伝社に応募してきたのです。
彼女はその後も花伝社で頑張ってくれ、結婚とその後の出産の時期まで、7年間ほど事務所の中心として働いてくれました。彼女の頑張りと功績にも感謝しています。
ITの活用
「必要最小限の体制」ということで大きかったのは、IT時代の到来です。私は元来不器用で、パソコンを扱えるようになったのもまだつい最近のことですが、耳学問や他の出版社の動向からIT時代の到来と、それが印刷革命を起こしつつあることは認識しておりました。これを花伝社でもいかに活用したらよいか、いろいろ情報を集めていました。
1990年代になったある時、パソコンのオペレーターの経験のある女性が花伝社のアルバイトに応募してきました。オペレーターの仕事で体調を崩し、アルバイトなら勤務出来るということです。当時パソコンが導入され始めた頃は、オペレーターは長時間労働の激務で、彼女のように体調を崩す方も多いと聞きました。
彼女の採用とともに即座にパソコンの導入を決断しました。ワープロやパソコンを活用して原稿を書く著者もしだいに増えつつありましたが、当初は、この原稿をパソコンの活用で編集作業を完成させ、データを印刷所に渡してその後の作業を印刷所に委ねるだけで、コスト削減には直接繋がりませんでした。印刷所もIT時代にまだ充分対応出来る状態ではありませんでした。
その後、パソコンを活用して原稿を完成させるとともに、外部の業者と提携して版下を自前で造り、これを印刷所に渡してその後の製版から印刷・製本作業のみを印刷所に依頼するようになりました。これである程度コストの削減に繋がりました。
IT時代の印刷革命はさらに進化しつつありました。情報を集めて花伝社でこれにどう適応するかいつもチャンスを伺っていました。
いまから10年前に、マックの操作が出来る女性編集者が週3日のアルバイトに応募してきました。この時、マックの導入を即決断しました。彼女は自宅でいくつかの出版社のDTPの作業を請け負っていました。私から見ても、一級の力を持った優秀な方でした。請負いの仕事は忙しい時もあるけれども仕事が不安定だと言うのです。手当ては多少低くとも、週3日の安定した仕事があることは彼女にとってもメリットがあるということです。花伝社にとっても丁度好都合でした。もしこういう優秀なスタッフをフルタイムで雇うとすると相当な手当てが必要にもなりますし、月一点程度の出版ペースでは、それだけの仕事もありません。双方にとって良かったのです。彼女はそれ以来ずっと花伝社の重要なスタッフとして今日まで働いてくれています。
ここから本の制作における花伝社の飛躍が起こりました。自前でゲラを出し、データを完成させてそれを印刷所に渡すことが出来るようになりました。コストの上でも、かつての半分近くの印刷経費で済むようになりました。制作のスピードの上でも飛躍が起こり、企画編集を私が一人でやっていた時も、年間15~20点近くを出版するというような状態となりました。
しかし印刷革命はとどまることを知らず、その後も大きく革命的な変化が起こっていました。CTP印刷の登場です。花伝社はいまやすべてこれによっていますが、従来の版下はもちろん製版の作業も飛ばして、データから直接印刷に繋げることが出来るようになりつつあったのです。印刷コストにも革命的な変化が起こっていたのです。
情報を集めてCTPを実現するチャンスを伺っていました。当時印刷業界もこれを導入するには相当な設備投資が必要ということで、まだすべての印刷会社が対応していたわけではなかったのです。
花伝社は、創立当初からある中堅の印刷会社一本に絞って本の印刷製本を依頼してきました。印刷業界の競争も熾烈を極め、いくつもの印刷会社がCTP印刷を売りにして当社に切り換えればこんなに安く本が出来るよと勧誘に来るようになりました。
こうした中で、創立以来、印刷製本をほぼ1本に絞って依頼していたその印刷会社がすでにCTP印刷を導入していたことが偶然分かりました。
花伝社を持続するためにまた良い本を出し続けるためのぎりぎりの努力を続けているというのに、すでにCTPに切り換えているにもかかわらず何の説明もなく、相変わらず従来どおりの請求を何食わぬ顔でやっていたのです。怒り心頭に発しました。
そこで従来通りの請求額とCTPに切り換えた場合の費用の差額を自分で計算し、これこれの額は不当な請求であり、虚偽の請求であるとして印刷所に怒鳴り込みました。相手の態度によっては弁護士を立てて不当利得返還請求を行う腹も固めました。
当時の印刷会社の社長とは彼が営業担当であったころからの親しい関係で年に一回は飲む関係にあったのですが、その社長の平謝りに謝る姿や、CTPに移行しても一挙に全部そうなったのではなく、従来の方法と平行しながらCTPに移行してきた事情なども聞き、私も人情に弱い人間でもありますから、最終的には、私が不当利得、不当な請求であるとして支払いを拒んでいた額は、今後毎月5万円ずつ支払っていくことで決着し、これからの請求はすべてCTPを基準として請求してもらうことになりました。結果として従来の約半額の請求額で本が出来るようになりました。
その後さらに別の印刷会社と取引関係を始め、さらにそれより3割安く本が出来るようになりました。10年前と比べても、半額の7掛け、すなわち35%で本が出来るようになりました。
このように、社長自身は不器用でパソコンが全くダメにもかかわらず、ITを徹底的に研究し、IT時代に適応してきたことが花伝社が存続してきた大きな要因であると思います。技術の進歩は止まることを知らず、今後も絶えず情報を集め研究していくことが必要だと思います。
ただ一方では、私は出版社の人間ですから出版社側から見ているのですが、印刷業界も今日の状況に対応していくのは大変なことではないかと思います。印刷業界の実情も知らなくてはならないと思います。出版社が自前で本を造るのではなく、出版業界は印刷業界があってはじめて成り立っているのですから、共存共栄の関係にあることを忘れてはならないと思います。
編集長を迎える
編集長を迎えたのは、2003年の秋でした。創立当初は、友人で優秀なある編集者に委託して編集作業を手伝ってもらった時が3~4年ありましたが、18年余り、基本的には私一人で企画編集作業を行ってきたわけです。
パソコンの導入で、出版ペースも上がり、また次から次へと出版の依頼や原稿の持ち込みがあり、それを誠実にこなすだけで精一杯という状態になりました。
自分で企画した本を出版するなどということは不可能な状態となりつつありました。歳も還暦を迎えて60代に入っていますから、老化や体力的な衰えは認めざるを得ません。また2000年に入ってから、田舎で一人暮らしをしていた母に痴呆の症状が出始め、母の介護問題が避けられない大きな問題として自分の前に浮上してきました。
こうした状態の中で編集長を迎えることになったわけです。
このことはやはり大きな意味を持ちました。花伝社の転換点となりました。あのまま、一人で続けていたら、ヘトヘトになって完全にバテていたと思いますし、今日の飛躍は起こり得なかったと思います。
編集長は、いま娘さんに会いにアメリカに行っており本日のインタビューには参加できませんでしたが、彼は大学の後輩でいわゆる紛争時代の団塊世代です。中堅の出版社で編集者を30年やってきたベテランです。彼としてもひとつの区切りとして、別の形で出版に携わってみようという思いがあったと思います。
ただ、花伝社のような小さな出版社の編集長として仕事を軌道に乗せるには多少時間がかかりました。
彼を迎えるに当たっては、小さな出版社の編集者として生き残るためには、「月一点程度を企画担当する覚悟があれば来て欲しい、またそのための準備をした上で来てほしい」旨を強調したのですが、中堅の出版社の勤務であり出版界の良き時代の編集者ですから、そのことにピンと来ていなかったかも知れません。
彼のいた出版社では、10人の編集者がいて出版する単行本は年間60点ほどだったと言うことです。すなわち編集者一人当たり平均6点ほどだったことになります。
たしかに出版社の良き時代は、一人の編集者が担当する企画は5~6点で良かった時期もあります。今やそんなのんびりできる出版社は大手でもほとんどありません。
新刊中心の出版にならざるを得ないという現実があり、また1点ごとの初版刷り部数も大幅に絞られてきていますから、自ずと一定の数をこなしていかなければ出版社は継続出来ないわけです。ましては小さな出版社ではなおさらのことです。
編集長を迎えてから、彼が担当する新刊が出るまでに何か月もかかりました。編集長を迎えたのに、花伝社の出版ペースがかえって落ちるという事態になりました。
少し焦りました。焦ってやる時は、失敗を重ねるものです。後に述べますように、こうした状況の中で花伝社の借金も増え、経営は創立以来のピンチを迎えました。
しかし、編集長の仕事も次第に軌道に乗り、話題となる本が出始めました。反転攻勢のきっかけは、彼が企画した中西新太郎さんの『若者たちに何が起こっているのか』という本でした。出版した直後から反響がありましたが、共同通信の配信記事として地方新聞を中心に書評が出るとともに大きな反響を呼び、増刷を重ねました。
彼を迎えた成果が出始めたのです。編集長を迎えて企画中心の水準の高い本を出したいという願いが実現し始めたのです。今日の飛躍は彼の役割と存在が大きかったことは間違いありません。彼としても月一点を出版していくなどという経験は初めてのことであり、若い時ならいざ知らず何かと大変であったと思いますが、頑張ってくれたと思います。
私のこれまでの経験からも、編集者は月一点をこなす能力と意欲を持った方でないと今日の出版社では務まらない、特に花伝社では務まらない。しかもただ一点を出せばいいというのではなく、それなりの水準と読者を獲得出来る本を月1点以上出す能力が必要なのだということを強調しておきます。
特に、今日はインターネットという、うまく活用すれば便利なものがある時代です。大手の新書の担当者が月4点のノルマが課せられているという話を聞いたことがありますが、月4点などというのは全く無理な数字で、自ずと粗製乱造になると思います。事実、私から見ても新書の水準はかなり問題な本もあります。
月4点もやる必要もありませんが、月1点はもちろん年間15点ぐらいをやる覚悟と能力が必要かと思っています。少ないメンバーで最大の効果を上げる、ここにも創業以来 「必要最小限の体制」で「最大の効果」を上げていくという方針を企画編集に当たっても追求してきた成果が現れていると思います。現在編集長や私も含めて全体6名のメンバーで、年間30点近くを出版出来ていることにも、花伝社が存続出来かつ堅実経営を実現し維持している要因があると思っています。
──花伝社は「実質無借金経営」だということですが、これはどのようにして実現したとお考えですか。
堅実経営、無借金経営
「実質無借金経営」という意味は、借金はまだ額面としては少し残っておりますが、積立も長年に渡ってコツコツやってきましたから、これを借金返済に充てれば、いつでも無借金を実現する事が出来るという意味で、「実質無借金経営」と言っております。まだ大きく利益を上げるまでには至っておりませんが。
花伝社はもともと設立当初から比較的少ない借金でやってきました。設立5年ほどは無借金経営でした。しかし出版は投下した資金を回収するのにある程度時間がかかります。また出版は「注文生産」ではなく、あくまでも「見込み生産」というところに特徴があります。見込み通りいかないことの方が多く、出版は自ずと自転車操業となり、借金体質になっていく必然的要素を内包していると思います。
設立5年目頃から、取引のあった信用金庫の担当者から勧められたこともあり、当時の国民金融公庫とか東京都や千代田区の中小零細企業を対象とした小口融資などを申し込むようになり、少しずつ借金を重ねるようになりました、しかしまだまだ少ない額でした。しかし、前述しましたように、緊急入院することになった年あたりから、1年間くらいは充分な活動が出来なかったこともあり、借金が急に増え、初めて1000万円を超えました。不思議なことに、1000万円を超えると、返してはまた借りるの繰り返しで、なかなか借金が1000万円以下になりません。
それでも、ある一定の範囲に止まっていました。というのは私には資産らしきものが全くなかったからです。バブルの時も含めて、担保になる資産がある場合は、銀行や信金の担当者は借りろ借りろとうるさいほど勧誘にきます。花伝社ほどの小さな出版社で、億を超える借金で倒産した例も知っています。3つくらいの会社でいわゆる融通手形をやっていて、一つの出版社がつまづき、あおりを食って倒産した例も知っています。
出版にかぎらず安易な借金は禁物です。
私の場合は、担保になる資産がありませんから、自ずと借金に限度があります。最初から、国民金融公庫とか、東京都や千代田区からの小口融資などの公的な機関からの借入れをぐるぐる回しながら、その範囲の借金で終わっていました。
借金をしないで済む堅実経営の出版経営を初めから目指していたわけです。私にとってはそれしか方法がなかったのです。コストの削減も含めて堅実経営のあり方を徹底して追求してきました。
それでも病気をした頃、借金が1000万円を超え、編集長を迎えた頃には借金は最大の額となり、一時は初めて友人の個人からも借金をするようなハメとなりました。いつしか借金体質となってしまったわけです。
ある時、母の介護問題で田舎に帰っていたころ、このことをじっくりと考えました。
そして決意しました。志の出版を始め、多くの友人たちからの支援をいただいたのに、こうした事態は恥ずかしいことだ。借金は必ず返す。特に個人から借りた金は早期に絶対に返す。そのための緻密に段取りと方法を考えました。
花伝社の経営は2005年頃から反転攻勢に転じて借金が少しずつ減ってきました。そして、2008年の10月後半に突然花伝社の本が動き始めました。老人施設でお世話になっていた高齢の母の死を迎える直前のことでした。
安保徹先生、船瀬俊介さんらの『ガンは治るガンは治せる』という本が発行して1年半後あたりで突然動き始めたのです。大阪の紀伊國屋書店から200冊をすぐ送れというような注文などがあちこちから届き始めました。何が起こったのだろうかと思っていますと、斎藤一人さんという「銀座まるかん」の創業者の方が「この本を読め、人に読むように勧めよ、幹部は10冊買え、この本が10万部出れば世の中は変わる」と幹部たちに檄を飛ばしているとのことです。全国を講演で歩いておられる方で講演の度にこの本を勧めてくださいました。また斎藤一人さんのフアンの方々も全国に無数におられ、斎藤さんの勧めによってこの本を読んだ方がまた次の人たちに本を勧めるというような動きで、またたくまに版を重ねました。
私は、斎藤一人さんという方の存在も知りませんでしたし、もちろん会ったこともありません。納税額全国ベストテンに何回も登場されていることや本も沢山出されていることを後で知りましたが、それまで一冊も読んだこともありませんでした。このような方が、花伝社の本をこのように紹介し勧めてくださっていることに感激しました。チャンスは外からやってきたのです。後に斎藤さんの本を何冊か読んだのですが、チャンスや幸運というものは外からやってきるというようなことを繰り返し述べてられることを知りましたが、まさにこういうことが花伝社に起こったのです。
有意義な本を出そうとコツコツやってきたことがこうした形で花を開いたと思いました。 このチャンスに一気に借金を減らそうと決意しました。個人からの借金をまずゼロにしようと、可能な限り借金返済に努めました。
こうしたチャンスにも恵まれ、またこの本ばかりでなく全体に好調に売上げを伸ばすことが出来、一気に借金を減らし、個人からの借入れは全額完済し、まだ少し額面は残っていますが、創立25周年を前にして実質無借金経営を実現出来たのです。堅実経営をこのまま続けていけば、完全無借金経営の実現も夢ではないと思っています。
今日の出版界の状況で、完全無借金経営をもし実現出来たら、それはすごいことではないかと思っています。借金がないということは、出版の自由を確保していることですから。出すべき本を出す事が出来るという自由と可能性を手にしていることですから。
2 自由な出版
──花伝社の理念や目指すべき方向は、「自由な発想で同時代をとらえる」というキャッチに集約されていると思いますが、社長がこういう方向性を打ち出されるに至った思いをお聞かせください。
出版社を立ち上げたのはなりゆき
出版社を始めたキッカケは、最初から出版に対する高尚な目標や意図があって始めたわけではなく、ある種のなりゆきというか、「出版でもやってみようか」「出版しか出来る事はないな」というようなことであったことは事実です。前述したように、ほんの短期間出版社に在籍していたことはあるのですが、花伝社を立ち上げる前は、数年にわたって司法試験の勉強をしておりました。
この辺の経過について少しお話ししたいと思います。
私は1960年(昭和35年)に岐阜の田舎から東京に出てきました。1年目は受験に失敗しまして、東京の駿台予備校に入り、アルバイトをしながら勉強しておりました。60年安保の年です。
まだ浪人の身分ですから受験勉強に専念しなければならないのに、血の気が多いものですから、国会の周辺に様子を見に行ったのです。そうしたらはまってしまった。学生のデモ隊にもぐりこんでは参加するようになりました。東大生の樺美智子さんが亡くなった6・15には国会にも突入しました。
7月に安保が国会を通ってしまうと呆然自失の状態となり、一旦田舎に帰りましたが、もう一度決意しなおして上京しました。
アルバイト先の工務店の女主人が太っ腹な方で、新宿柏木に社員寮があったのですが、そこに空いていた二畳の部屋を「あんた使いな、仕事はしなくていいから勉強に専念しな」といって住まわせてくれたのです。二畳といえば、机を置いて布団を敷けばそれで終わりです。そこにタダで住まわせてくれました。そこで必死に勉強に集中しました。なんとか翌年の入試に合格し、東大に入学することが出来たのです。
学生運動に明け暮れる
せっかくあこがれの大学に入学したのですが、その後は勉強もしないで学生運動に明け暮れる日々を送ってしまいました。駒場で4年、本郷で4年、気がつけば8年も大学にいたことになりました。最後の年には、東大紛争にひっかかりました。授業にはほとんど出ませんでしたが、不思議なことに卒業証書があります。もっとも紛争のドサクサに紛れて卒業証書を手にしたとも言えなくはないのですが。おまけに女房も付いてきた(笑)。
この8年間の間に本当にいろいろな経験をしました。いろいろな人物と出会いました。
駒場時代には、いまは廃寮となってしまいましたが、当時700名の学生が住んでいた駒場寮で面白い寮生活を体験し、寮委員長もやりました。寮委員会の活動では、その後東大総長となった佐々木毅君も一緒でした。寮委員長の延長線で、全国の寮の横の連合体である全寮連の再建と再建委員長をやりました。東大10学部の自治会の連合体である中央委員会議長にも担ぎ上げられました。その頃、日中国交回復前でしたが第1回日中青年大交流会というものが開催されましたが、学生団体の団長として訪中し、約1カ月半に渡って、文革直前の中国の各地を訪問し、当時の中国の指導者である毛沢東、周恩来、鄧小平、劉少奇、後に中国共産党首席となられる胡耀邦さんともお目にかかるという貴重な体験もしました。その後全学連にも引っ張られ、最後には東大紛争にもぶつかるというような8年間を送ってしまいました。
何でそんな学生生活をしたのか、何が面白くてやったのかと若い人から質問を受けますと、なかなか一口に答えることは難しいのですが、自分にそのような活動が向いていたとはとても思えません。演説も下手くそですし、容姿もぱっとしません。また面白くてやったというより、悩みながらも何か使命感のようなもの、時代の要請というようなものを感じて夢中になってやっていたら8年経っていたというのが事実に近いのではないかと思っています。
ただ言えるのは、目の前に許しがたいこと、例えば当時はベトナム全土がどんどん爆撃され無辜の人々が無残に殺されていることとか、不正義や不公平、弱者が痛め付けられていることなど目の前にして座視していることは出来なかったこと、その気持ちをただちに行動に移すといった時代精神が社会に充満していたことは事実です。自分はただそうした時代の空気に敏感に正直に反応していった一人ではなかったかと思っています。
いずれにしても、学問は全く身につかなかったのですが、この時の体験、そこで得た時代精神と時代感覚、出会った人々、人間関係といったものが、その後の自分にとっても貴重な財産となったのではないかと思っています。
花伝社を創立し、出版活動に携わるようになってからそのことを時々痛感しております。
新日本出版社の編集者時代
新日本出版社に就職したのは、まだ大学を卒業する前からでした。全学連の勤めを果たした後、私は相変わらず貧乏でしたから、どこかにアルバイト先を見つけて、今度こそ卒業のための勉強をしようと思っていました。
その時、実に良い話が舞い込んできたのです。編集の仕事をしつつ卒業のための授業に出てもよい。給料は一人前払う。ただし卒業出来たらここに残って仕事を続けるこという条件で出版社に就職しないかという話が持ち込まれてきたのです。
私はこれに乗ることにしました。父母も私のことを相当に心配していましたから、この話を非常に喜んでくれました。
しかし、旨い話には落とし穴があります。右も左もそれは同じことです。
最初の2~3カ月だけ、週2回ほど大学の授業に出ることは確かに出来ました。しかし間もなく、当時新日本出版社が準備していた『宮本百合子選集』など責任ある仕事を担当するハメになりました。アルバイト気分ではとても務まりません。次第に大学の授業に出ることも疎かになってきました。また給料の方も、まだ大学の卒業証書がないからというので、約束通りの一人前の給料が出ません。アルバイト扱いです。
おまけに東大紛争の勃発です。
とうとう、まとまった勉強は何一つせずに私の学生生活は終わりました。
東大紛争の頃のことは話が長くなりますので省略しますが、この紛争もケリがつき、長い8年間の学生生活も終わり、私は卒業証書を手にして新日本出版社の編集部に復帰したのです。その後の2年間は、充実した編集者の生活を送りました。結婚もし、子どもも生まれ張り切っていた時です。
この編集者時代もその4年で終わりましたが、そこで出会った人たちのことも強く印象に残っています。特に哲学者の真下信一先生や、当時沖縄国会の最中でしたが、連日高輪の議員宿舎に出向いて本を作りながらいろいろな話を聞くことが出来た沖縄人民党党首・瀬長亀次郎さん、当時共産党の文化部長をやっておられた、小林多喜二の指導者・蔵原惟人さんなどとの編集者としてのお付き合いが強く印象に残っています。宮本百合子選集の編集に当たり、作品のほとんどを読破し、小説『伸子』が雑誌に掲載された最初の文章から単行本にまとめるに当たってどのように手を加え変化していったかなどを編集活動を通じて知る事が出来たことも今では貴重な経験だったと思っています。話は余談になりますが、現在でも宮本百合子ファンも多く、これを絶対化し礼賛・賛美する文芸評論家なども大勢存在していますが、この選集の編集の仕事を通じて、若い近代的女性の自立した個人として悩みながら失敗しながら成長し変化していく「過程」にこそ宮本百合子の文学の核心があるのではないかと思い至り、若げの至りですが、こういう無批判的・教条主義的連中を徹底的にやっつける文章をいつか書いてやろうなどと思ったものです。
突然司法試験の受験勉強を始める
その後新書の責任者を務めるなど、編集者生活も順調にこなしていたのですが、様々な事情で出版社を辞し、突然司法試験の受験勉強を始めることになりました。半ば本気で、半ば緊急避難的にこういう生活を始めたわけです。
もともと大学に入ったからには何か一つでも集中的に勉強したいという願望は強く持っていました。私はもともと文学的な人間であり、文学部出身でもありますからまさか法律の勉強に手を出すということなどは、思っても見なかったのですが、友人に弁護士になった者、司法試験の勉強を続けている者も沢山いた関係で、やって見ようということになった訳です。
しかし大変な生活が待ち受けていました。当時は今と違って500名弱くらいしか毎年合格出来ません。法学部出身で若い時に勉強に集中したとしてもなかなそう簡単には受かりません。自民党に谷垣禎一という政治家がいますが、彼など法学部の出身で父親も政治家で恵まれた環境にあるにもかかわらず、司法試験に合格するまで8年もかかったという話は有名です。花伝社の著者でもあり、日弁連会長の宇都宮健児さんは留年することもなく、大学在学中に合格していますが、こういう例は東大でもそう多くはないと聞いています。
ましてや私は、年も30を超え、しかも文学部出身で法律の勉強などやったことがない、そもそも大学でまともに勉強したことが一度もない。すでに妻も子どももいる、勉強を担保する生活条件などなにもないという中での出発でした。準備無しの無鉄砲な船出でした。
たちまち生活に困窮しました。やがて人に誘われて生活のために学習塾を始めました。この学習塾は進学塾ではなくいわゆる補習塾でした。この時の経験は、現在の花伝社の経営に繋がる点がありますので、後に触れますが、受験生活の当面の方便と割り切ってやる手もありましたが、何をやっても悲しき不器用な人間ゆえにか、地域のいわゆる落ちこぼれや暴れん坊、性格のゆがんだ子、赤い髪をした子など問題児があそこに行けば面倒を見てくれると思ったのか、こういう子どもたちが塾に集まってくるようになりました。私自身は直接教えることはなく、いくつかの小さな教室を管理、経営していただけですが、生活を維持するためと、こうした子どもたちの実態に義憤を感じてやっているうちに、自分が司法試験の勉強をやっているのか何をやっているか分からないような状態になってきました。
試験の法律の勉強もうまく行きませんでした。特に論文試験に進むためにはその前にまず短答式試験というマルバツの択一試験に合格しなければなりません。私はこれが大の苦手でした。司法試験に合格した人の話によると、「平田さん、あんなものはどれが正しいかをあれこれ考えているようでは受からない。どの辺に正解があるか一目見て勘で分かるようにならなければダメだ」いうのです。またある人は「奥さんの方が司法試験を受ければ一発で合格するのではないですか」などと冷やかされ、コンチクショウと思いつつもどうにもなりませんでした。8年間あまり、もがいた末に、とうとう司法試験の勉強を断念することにしました。
法の精神に触れる──言論出版の自由の価値を確信
法律はものになりませんでしたが、そこで得たものは私にとって大きな収穫となりました。法律の勉強は憲法、刑法、民法その他相当広い範囲の勉強をしなければなりません。中でも民法の勉強がなかなかうまく行きません。民法が弱いなどというのはそもそも法律家、弁護士に向いていなかったと思います。しかし、刑法や、憲法の勉強の番となると、生き生きとしてきます。何度やってもいつも新鮮な感じで勉強しました。それまで人権などというものは、人が生まれながらに持っている天賦人権的な感じでとらえていたのですが、基本的人権とは「人権の調整原理」だというような憲法の理論を新鮮に受けとめました。また、人権にも構造があり、民主主義社会において最も上位にあり根幹をなすものとして、言論出版の自由、表現の自由があるという憲法理論も新鮮でした。
司法試験の断念後、出版社を立ち上げようと思ったひとつの動機に、この時憲法を勉強したことが大きく影響していることは間違いありません。そこで自由な出版社を立ち上げ、自由な言論出版活動をやることの意味付けを自分なりに確信できたわけです。
またこの時、法律を勉強し法の精神といったものに触れたことは、自分のこれまでの思想のあり方な大きな変化をもたらしました。私は、大学に入学し学生運動に携わって以来、毛沢東やレーニン主義の影響を強く受け、ガリガリの原理主義的傾向を持った人間であったと思います。なにしろ毛沢東にも直接会ってきたわけですから。しかし、法律を勉強することで自分の考え方に大きな変化が起こってきました。それまで正しいと思っていたことに、問題があったと思うようになりました。社会主義の現実や自分自身の体験を通じて、なおさらそれを痛切に感じました。
何回受けても合格出来ず、何年もの間法律の勉強を繰り返しましたので、その影響はじっくりと骨の髄まで染み込んできたと思います。
また憲法の精神や法の精神に触れた影響とともに、法律家にはなれなかったとしても、それを通じて法的な知識を身に付けたこと、法学部を卒業したぐらいの知識を得たことは、その後出版社を立ち上げ経営するに当たっても貴重なことであったと思います。あの文学青年の感覚のままで出版社を始めていたら、とっくに潰れていた可能性もあったと思っています。
「同時代」というとらえ方
「自由な発想で同時代をとらえる」が花伝社を創立した時に掲げた方向性・理念ですが、そこでいう「同時代」ということは何か、なぜ「現代」ではないのか、ということについて話したいと思います。
ベトナム反戦運動が大きく盛り上がっていた1960年代に、私は尊敬する吉野源三郎さんや、哲学者の古在由重さんから強い影響を受けた一人ですが、お二人とも盛んに「同時代」という言葉を強調されていました。そこで私が理解した「同時代」ということの意味は、「現代」という言葉が時代に対する客観的なとらえ方であるとすれば、「同時代」というとらえ方は、その時代をいかに生きるかという主体的・倫理的・実践的にとらえた場合が「同時代」という表現であると理解しました。
この言葉を花伝社の創立の言葉にも入れました。
出版を通じて、自由な立場で時代と時代精神に迫ってみたい、いかに生きるか、人はどうあるべきかという問い掛けを絶えずしながら、時代の問題に出版という形で取り組んでみたい、これがあの言葉に私が込めた意味であるわけです。
法律家にはなれなかったが、もし法律家になっていたら取り組んでいただろう様々な社会問題や、時代が要請する問題に、出版を通じて取り組んでみようと思ったわけです。
花伝社は創立当初から様々な社会問題に関する本を出版してきましたが、それは友人に法律家・弁護士が多く、彼らから依頼されてそういうテーマの本を出版してきたことも事実ですが、自分の思いからしても、創立当初からそういうスタンスで取り組んできたのです。
「自由な発想で同時代をとらえる」ということは花伝社の骨格をなす方向性だと思いますし、小さいながらも大きく構えた目標でもありますので、今後ともこれを堅持して出版活動を続けていきたいと思います。
また、この方向性を一貫して追求してきたことが花伝社が今日まで持続できた要因でもあり、また激しい変化と矛盾の渦巻く時代にあってやるべきことは無限にあり、またこのスタンスを維持していけば花伝社の可能性も無限に開かれていると私は思っています。
3 出版の現状と花伝社のこれから
──出版界の現状を社長はどう見ておられますか、また花伝社のこれからをどのようにお考えでしょうか。
長びく構造的不況
花伝社を始めた1985年頃にも、出版は不況業種であるということが言われていました。そんなところに乗り出すのは辞めた方がいいと大勢の友人から言われました。
しかし、それはかつての出版界が絶好調で高度成長を遂げていた頃と比べて不況になってきているということであり、まだ牧歌的な感じでした。しかし、バブルが弾けた頃から、確かに状況は深刻になってきていると思います。
出版界は1996年をピークに売上げも連続して減り続けています。花伝社を始めた頃は、全国の書店が約3万軒あったのですが、特に2000年頃から毎年1000軒近く減り続け、今では半分の1万5000軒ほどとなっています。出版社の創業も、花伝社を始める頃は毎年70~80社ありましたが、今では十数社とか一桁の年もあり、出版社の数も減少に転じています。
そんな中で、新刊の出版点数は、花伝社創立の頃には年間4万3000点くらいでしたが、今や8万冊となっています。業界全体が新刊中心の自転車操業となっています。
なぜこういう状況になっているのか。いろいろな要因が複雑に絡まっており、一口には言えませんが、よく言われているような活字離れとか、インターネットの影響とか、出版界の流通の構造的な体質とか、いろいろな要因があるでしょう。日本経済の長引く不況の影響もあると思います。
インターネット時代の出版の可能性
ここで特にインターネット時代の到来と出版の関係について、私の認識を語りたいと思います。インターネットの発達によって新聞と同じく、出版も衰退していくだろうという通説的な言辞に対して、私はむしろ出版の可能性は高まっているという認識を持っているのです。電子書籍元年などということも最近強調され紙の本はもう終わりだなどということを言う評論家もいますが、私は紙の文化としての書籍はむしろその存在価値が高まっている、出版の可能性が高まる時代がきていると逆に思っているのです。
たしかに、「情報としての書籍」という面からだけ見ますと、そのスピードにおいても、世界のあらゆる情報をどこでも一瞬のうちに手にすることが出来るという利便性の意味でも、インターネットに優るものはないでしょう。また「消費する書籍」として使い捨てすることが出来るような、マンガとか流行小説の類いは、インターネットで間に合うと思います。そして、書籍よりも今のところ「安く」手に入る。この「安い」ということは、相当問題性を含んでいますので後ほどまた触れますが。
冒頭で述べましたように、花伝社の創立総会で、設立の宣言とともに、花伝社の今後の方向性、どういう視点で出版に取り組みたいかを報告しました。そして、25年たった今これを読み返し、小さいながらもこの方向性を一貫して追求してきたことを再認識しました。その方向性とは、①同時代性=時代とのかかわり、②必要性=社会的有益性、③情報性、④価値性=文化性、花伝社としてのアイデンティティ、という4つの方向で取り組みたい旨を述べました。この4つの方向性は、そのまま書籍とは何か、紙の本とは何かということと密接に結び付いていると思います。
またこの創立総会では当然の前提としてあえて触れませんでしたが、書籍は出版の自由、言論の自由と密接不可分の関係にあるのです。
書籍は情報性だけではないのです。
グーグル帝国主義との問題
グーグルが勝手に世界中の本をデジタル化しつつあることが明るみになり、アメリカはもとより全世界で大問題となりました。
この問題をいろいろ勉強していく中で、私はヨーロッパの出版人の言葉に感銘を受けました。ドイツのある出版人が「これは、儲かるか儲からないかが問題ではなく、出版の自由の問題なのだ」という言葉を感銘深く読みました。さすが言論出版の自由という問題についての長い歴史と闘いの伝統を持っている西洋の出版人の矜持を表す言葉です。たしかに、グーグルが全世界の書籍のデジタル化に成功し、書籍を支配するようになったらどうなるか、出版の自由は危機に瀕すると思います。現にグーグルが実質的な検閲を行っていた事実も明らかになってきています。
過去に全世界で出版された書物は膨大にあり、書籍のデジタル化ということも避けられない時代が来ていることは確かでしょう。しかし、利便性だけでまた利益が上がればよいということで、言論出版の自由がグーグル帝国主義などに一極集中的に委ねられることはあってはならないと思います。
精査された膨大な情報が小さな一冊に
確かに、寝転がって気楽に読む本もあります。しかし、目を皿のようにして読まねばならない本もあります。何度も繰り返して読まねばならない本もあります。
みなさん方も経験しているように、こうした本を読むとき、傍線を引っ張ったり、書き込みをしたり、付箋を貼ったり、他の本と比較しながら読むような経験をしていると思います。本というのは、精査された膨大な情報が一冊の本に詰っています。これほど便利でしかも安い物は他にはないと思います。
著者と編集者との共同作業、装丁の価値
また、電子書籍などでは、編集者や出版社を抜きにしてストレートに書籍化できることに意義を見出す論調もあります。
たしかに、著者によっては、編集者が一字一句たりとも直すことを嫌い、そのまま出版してくれることを望むような方も時には存在しています。
しかし、みなさんの経験でも分かるように、特別な専門書を除き、通常は著者と編集者との共同作業によって本は完成していきます。明らかな間違いの指摘だけでなく、編集者は最初の読者でもあり、いかにしたら読者にメッセージをより伝えることが出来るか、また読者の問題関心といかに切り結ぶかというような視点でいろいろ意見も述べ、場合により書き直しをお願いするなどして本を完成していくことは我々の日常の仕事です。そこに編集者や出版社が存在している意義もあります。著者は出版社という「関所」を通過することで、よりよい本に仕上げ、また出版社の営業活動や取次・書店さんの機能や働きかけにもよって本の販売にも取り組んでいるのです。
これを嫌い電子書籍で、いきなり書籍化したいという方はそれでおやりになったらいいと思います。
また、紙の本というものは、装丁家も存在しそれなりの風格、存在感のある一冊として出版されている訳です。一冊の本が見本として届けられたときの緊張と、装丁も含めて思い通りの本が出来た時の喜び、またそれを手にした時の著者の感動と喜びなどは、いつも我々が経験しているところです。これが我々の生きがいにもなっているのです。読者の座右の書となるようなものが一冊でも出せることが我々の生きがいでもあるのです。
紙の本というものは、そうした「文化として存在」なのだということを強調したいと思います。無機質な情報、データとは明らかに違う存在なのです。
インターネットはパクリの文化
もう一つ私が最近特に思うのは、インターネットの情報というものは、自ら何か新しい価値を創造しているものではなく、現にある新聞やテレビ、出版物の内容をそのままパクッているもの、しかもただ乗りしているだけではないかと強く思っています。
新聞が急速に衰退したのは、インターネットの力を最初甘く見た。自分達の得た膨大な情報をタダでインターネットに利用されることを許した。その結果、足下を崩され、いま全世界で危機に瀕している。
新聞社は一つの情報を得るにも、記者の養成にも、全世界に張り巡らされたシステムを作り上げるにも、膨大なコストをかけている。それをいとも簡単にタダでパクられている。もし、インターネットによって新聞社などがどんどん潰れたら、インターネットはガセネタだらけの世界となっていくに違いないと思います。
一冊の本の原稿を完成するまでに著者がどれだけの労力と精神労働を注ぎ込んでいるか、その原稿を受け取り一冊の本に仕上げるまでに我々出版社はどれだけの労力を注ぎ込んでいるかを見れば、新聞のように安易にインターネットに利用されることがあってはならない。情報や本にはそれなりのコストがかかっているのです。
電子書籍の動きについても、安易にこれに乗るようなことがあってはならないと思っています。絶版本などの復刻に電子書籍を利用するなど、あくまで限定された利用であるべきではないかと思っています。もう少しよく勉強し、花伝社としての対応を慎重に検討していきたいと思っています。
最大の情報は人間関係から
インターネットの発達によって、確かに社会のあり方も仕事のやり方も大きく変わってきました。ただ、単なるデータと情報とは明らかに違うと思います。膨大な生のデータをいくら集めてもそこから自動的に何かが出てくる訳ではありません。情報とは、何かの目的に照らした「価値的な概念」ではないかと思っています。
最近、大きな企業でもあるテーマや課題に関する資料を作れと言われると、その担当者が経営者が読み切れないような膨大な資料を作るようになって困っているというような話を聞いたことがあります。
出版においても、膨大なデータを集めるだけではいい本は作れません。何をやりたいのか、どんな本を作りたいのか、それがどんな社会的意義があるのかという問題意識が先にあって、その目的のために必要な資料や情報をとるためにインターネットを活用すれば、こんな便利なものはありません。しかしただ漠然とインターネットを見ているだけでは時間の無駄というものでしょう。
その点で最近思いますのは、最大の情報は、生身の人間関係から得られた情報、現場から得られた情報というものがインターネット時代でますます大事になっておりまた最大の価値ある情報ではないかと思っています。
花伝社は創立当初から、人脈を基礎とし、人間関係を大事にする出版活動を続けてきました。設立当時は、俺は「ゼロから出発するのだ」と悲壮な気持ちも多少ありましたが、しかしゼロでなかったのです。冒頭で述べましたように「人脈」という貴重な財産があったのです。出版したいテーマから出発するのではなく、人脈から出発するなどということは、最初はこれは出版においては「邪道かな」などと思ったこともありますが、ある出版関係者からそれこそ「王道」だなどと言われたこともあります。
これから花伝社を担う若い方は、初めから人脈があるなどということは不可能かも知れませんが、ひとつひとつの仕事をこなしながら、著者との人間関係を大切にし、自分の人間関係、人脈を意識的に作り上げ、そこから出版物が生み出されるような方向をめざして努力していって欲しいと思っています。
また最近の持ち込み原稿などを見ておりますと、自らの研究理論とか具体的な現場からの取材とかではなく、インターネットからの情報だけで器用にまとめた原稿なども増えています。こうした生の情報によらない原稿では、いい本は出来ません。
インターネット時代であるからこそ、生の情報、生の人間関係から得られる情報が貴重になっていることに留意する必要があると思います。
出版において利益を上げるとはどういうことか
出版社の場合も会社であるかぎり、利益を上げなければ存続させていくことは出来ません。しかし、それは出版を継続するために採算を合わせていくということであり、利益を上げることそのものが最大の目的ではないと、これまでの経験から思っています。
まず社会的に有益な仕事をすること、有意義な出版を実現すること、そしてこれを実現しつつ採算を合わせていくこと、またスタッフの待遇を確保し改善していくこと、これに尽きるのではないかと思っています。
そういう方向でやってきたのが、結果としてこのようなちっぽけな出版社が今日まで存続できたことに繋がったのではないかと思います。
この点で思い起こすのは、設立にあたっていろいろな関連する本などを読んで準備したのですが、この中で本の定価の設定につき、出版界における著名な方の本を読んだのですが、そこで述べられていたことは、現在の出版事情では、たとえ初版を完売しても利益が出ない、増刷になって始めて利益が出る、というようなことが書かれていました。私はこれはおかしいと思いました。商売の神様の松下幸之介さんも、通常は少なくとも7~8%、理想としては、12%くらいの利益があがるようでないとその企業は存続していくことができないというようなことを言っておられる。
そこで私は、初版を完売すれば少なくとも8%くらいの利益が出るにはどうしたらよいか、読者が納得できる定価をつけつつ、これを実現するにはどうしたらいいかを最初から考え続け、またそのための努力をしてきたわけです。制作コストを徹底して削減するための研究、スタッフの待遇も現実に見合った合理的な範囲で行うことなども、そうした方向性の中で考え続けてきたわけです。創立当時、筑摩書房の倒産ということもありましたし、良書を出し続けている筑摩書房がなぜ倒産するに至ったかなども情報を集めて研究しました。
実は、こうした方向性も、学習塾の経験が大いに助かりました。社会的に有意義な仕事をすることと、採算を合わせていくことは本当に難しいことなのです。一方に偏らず、両者を調和しながら、仕事を持続していくために今後とも絶えず検討研究していく必要があると思っています。
自由な出版社の存在意義
「自由な発想で同時代をとらえる」というモットーを掲げて25年の間、営々として努力してきました。この自由な出版の方向、そして絶えず時代や社会との関係を考え続け、社会的に有益な出版をめざすという方向性を今後とも維持することが出来れば、花伝社もそれなりの社会的意義を持って存続出来るのではないかと思っています。
時代は大きく変化しています。価値観も多様になっています。これまで有効と思われていた理論や通念もそれまで通りにはいかない、パラダイム転換の時も迎えています。
特定の価値観やイデオロギーに囚われず、どんどん変化している時代に自由な立場で考える、これを貫いていけば花伝社で取り上げるテーマやるべき仕事は無数にあると思います。「イデオロギーは人格を超えず」ということが、これまで経験したことからくる私の信念でもあります。自由のない硬直した思想や組織は、時代から取り残されていかざるを得ないと思います。
また、花伝社はこれまでも、タブーとされてきたようなテーマにも果敢に取り組んできました。コンビニの奴隷契約問題、新聞の押し紙問題、抗ガン剤問題にも、小さい存在ながら取り組んできました。出版の自由のために今後とも果敢に取り組んでいきたいと思います。
少数意見もこの変化の時代にあっては貴重なものです。今日は少数意見でも、状況が変化すれば、突然脚光をあび、時代の通念となり多数意見となっていくことのような劇的変化も起こり得る時代です。こうした少数意見を尊重しないような硬直した国家や組織や思想では、やがて時代遅れとなっていくと思います。
時流に乗ることばかりを考えるのではなく、今は少数意見であっても価値のある理論や意見を積極的に取り上げて世に問うていくのも花伝社の役割のひとつではないかと思っています。花伝社は小さい存在ながら、自由な言論の一角を担う存在として、今後も頑張っていきたいと思います。
花伝社はまだスタッフが10人にも満たない小さな存在です。しかし、その出版物1点1点は、大手と互角に勝負できるところに出版の面白さがあります。そもそも出版界そのものが日本の経済の中では小さな存在です。大手出版社であっても日本の大企業と比べればまことに小さな存在です。現在4000社と言われている日本の出版社の5割以上が、10人以下の出版社で構成されています。花伝社は現在年間25~30点近くを出版するようになっていますが、年間10点以上を出版している出版社は、全体の4分の1、1000社程度です。
こうした現実を見ても、出版社が大きいか小さいかは全然問題になりません。そこでどのような本を出すか、どのような出版内容を実現するかこそが問題です。
花伝社はこうした気概を持って、これからも進んでいきたいと思います。
「自由な発想で同時代をとらえる」という方向性を堅持し、必要最小限の体制とコストでいい本を作り、これまで通り堅実経営に務めるという方向性を続け努力していけば、どんな不況の時代がこようとも花伝社を存続させていくことが出来ると思っています。
花伝社で出版した本もまもなく400冊となります。長い学生運動の時代も、時代精神が自分に乗り移ってきたような感じを持っておりましたが、花伝社が出してきた400冊の本にも、全部とは言いませんが時代精神が乗り移り、それなりに時代を刻み映しだしているのではないかと自負しております。
私も、いつしか来年古希を迎えるような歳になりましたが、まだまだ五体満足ですから、頑張れるところまでやるつもりです。
しかし、これからは、自分が経験してきたこと、そして花伝社の理念を次の世代に伝えていくことが最大の仕事となると思います。若い意欲的な編集者やスタッフが花伝社に現れてくることを望んでいます。現在のスタッフとともに、さらに意欲的に仕事に取り組んでいきたいと思っています。
今日は、花伝社創立25周年を前に、花伝社を振り返り今後のゆくえを考えるいい機会となりました。
──今日は、社長からめったに聞けない話も聞くことができ、有り難うございました。
その5 第31回梓会出版文化賞贈呈式(2016年1月14日 日本出版クラブ会館) 受賞の挨拶
花伝社社長 平田 勝
(『梓会通信』第430号 平成28年5月30日発行)
花伝社社長の平田でございます。大変名誉ある賞を受賞できまして、感激しております。ありがとうございました。花伝社は昨年の秋で、ちょうど創立30周年を迎えました。実は発足した当時は、私の大学の先輩が一足先に出版社を立ち上げまして、そこの、本の倉庫部屋のようなところに机一つ置かせていただき、机一つ、電話1本、社長1人で始めたような次第でございます。
こういう形態をとったのは、軍資金といいますか、開業資金があまり潤沢でなかったという事情もありましたが、起業を準備する中で、この出版界に乗り出すには相当覚悟が必要で大変だということが段々わかってきまして、ともかく本を出版できる最小の単位から出発して、実績を少しずつ積み力がついたら、それに応じて体制を整えていこう、これしか出版を継続する道はないのではなかろうか。こういうことで始めたような次第でございます。それ以来、夢中で本を作り続け、また毎月の資金繰りを何とかクリアしながら、今日まで至りました。
花伝社創設にあたりまして、「自由な発想で同時代をとらえる」という出版の理念、方向性を掲げてやってまいりました。特定の立場とか、あるいは特定の既成の概念などにとらわれずに自由に出版をするということが一つ。それから、絶えず時代や社会との関連を考えて、社会的に有意義な出版をしていこう。この方向を必要最小限のコストと体制で実現して、ともかく出版を継続する。こういうことでやってまいりました。花伝社の30年はこれに尽きると思います。
大学時代の多くの友人達に支えられて、この出版社は発足したわけでございますが、かくして1960年代の同世代の友人達の声、あるいは学問的な展開、あるいは様々な社会問題に取り組んでいる友人達がたくさんおりまして、そういう人達みんなの声を代弁するような出版社になってきたと思います。
発足当初から、社会的な意味のある本をどうやって実現するか。著者と協力したり、あるいは弁護団とか市民団体とも協力して、これを実現するということでやってきたわけです。
30年たちましたけれど、ベストセラー的な本は残念ながら1冊も出すことができませんでした。友人から、こんな売れそうもない本を出して、よく続くなということで時々ひやかされておりましたが、こうした方向で一貫してやってきたことが、今日この名誉ある賞につながったのではないかと思っております。
この場を借りて感謝申し上げたいと思いますが、発足当時から取次を回りましても、まだ新規の出版社でしたがそれなりに扱っていただきました。創業当初は私も書店を回りましたが、書店の担当者の方も大変よく対応していただきました。それから、花伝社で出す本は新聞の書評とか記事などに大変多く取り上げていただきまして、非常に感激いたしました。やはり出版は1冊1冊の本の内容なのだということで、今日までやってきたわけでございます。この場をお借りしまして御礼を申し上げたいと思います。
出版界はなかなか大変でございますが、この厳しさの一つとして今日申し上げたいのは、出版社の数が減ってきている。それから出版社の起業も減ってきているわけです。30年前に立ち上げましたときは4500社ぐらいの出版社があると言われておりましたが、今それが3500社ぐらいになったと伺っております。
それから出版社の起業も、30年前は68社あったのが段々減ってきまして、2013年からはとうとう一桁になったという状況でございます。この出版の危機を打開するためには、新しい出版社がどんどん出てくる。出版に夢をかける若者もどんどん出てくるということで、業界全体が活性化することが必要ではなかろうかと思います。
私の拙い経験からしましても、そういう意味で新しい出版社がどんどん起業のできるような環境整備、条件整備をぜひともお願いしたいと思います。私は単行本一本にしぼって今日までやってきましたが、今後とも紙の文化にかけていきたいと思います。
本日はどうもありがとうございました(拍手)。